対話による吉田寮問題の解決を求める教員有志の会

「対話による吉田寮問題の解決を求める教員有志」による呼びかけ、関連情報などを掲載するブログです。

高嶋航さんのメッセージ(7月4日寮自治会主催集会でのスピーチ)

私自身は種々の運動にそれほど熱心に取り組む人間ではありません。いまでもそれは変わっていないと思います。ともかく研究教育ができればそれでいいという考えなのです。

ここでは、そんな私がなぜ呼びかけ人に加わり、ここで話をしているのかということをお話ししたいと思います。

吉田寮問題、とりわけ老朽化対策に関する大学との交渉については、これまでたびたび耳にしましたが、私自身がそれと関わろうとは考えませんでした。

ところが、2017年12月に大学当局が安全確保を口実に寮生の退去を求め、昨年夏に川添副学長との交渉が決裂したことを耳にすると、さすがの私も風向きが変わったことを感じずにはいられませんでした。ちょうどそのころ、私は職員組合の文学部支部長をしていました。私が職員組合に入ったのは、正直にいうと、勧誘を断り切れなかったからでしたが、いつの間にか二度目の支部長を仰せつかったのがそのときだったのです。

職員組合文学部支部では『けやき』という機関誌を発行しています。私は『けやき』に支部長就任の挨拶としてこんなことを書きました。私が最初に支部長を仰せつかった2014年はちょうど山極総長が選ばれたときで、職員組合としても大きな期待を抱いていたのに、いまや状況はまったく変わってしまった。大学の自治自由が奪われ、ますます管理が強化されていることに対して、なんとか声を上げなければならない、と。

文学部支部では毎年アンケートを実施して、組合員の要望を集め、文学研究科長と事務長と交渉しています。文学部の建物に関することから、職員の雇用に関することまで、いろいろな案件について文学部当局に善処を求めるべく働きかけているのですが、近年は文学部というレベルでは対処できないことが増えてきており、支部のレベルで交渉しても、らちがあかないことが少なくありません。これはさまざまなことに関する決定権が徐々に学部から大学本部へ(さらにいうと文科省へ)と吸い上げられているからです。大学の自治、大学の自由を実践するのは現場(学部)であるにもかかわらず、学部のレベルでそれを守ることが難しくなりつつあると感じていました。

そこに、吉田寮生が私の記事をもって研究室にやってきて、吉田寮問題への協力を求めたのです。私としてもそのような記事を書いた以上、協力を断るわけにもいかず、呼びかけ人となり、この場でこんな話をすることになったというわけです。

ただ、大学の管理強化とそれに対する職員組合の役割という点では、別の面からも気になっていました。ちょうど一年前におこった日大アメフト事件です。私自身はスポーツの歴史を研究しており、いま研究の対象としているのが日本で初めてアメフトをしたとされる人物であることもあり、たいへん興味をもってこの問題の推移を見ていました。その過程で、日大当局の信じがたいような実情が次々と明るみにだされました。問題の核心は、トップが絶大な権限をもち、上のいうことに逆らえない雰囲気ができてしまっていることにあると感じました。そして、トップが絶大な権限を持てたのは、それをチェックする機能がないからです。

いま、政府が進めようとしている大学改革は、まさにこのような大学を作ろうとするものです。トップがよければ大学はよくなるでしょうし、改革もすみやかに実施できるでしょう。しかし、もしトップに人を得ることができなければ、その暴走を止める手立ては有りません(日大のように外部の力を借りねば成りません)。悪い方向への改革も、教職員や学生の反対を気にすることもなく、すみやかに実施されるでしょう。これは非常に危険なことです。

そのなかで日大の教職員組合が反対の声をあげたことは、一服の清涼剤となる出来事で、思わず快哉を叫びたくなりました。日大の厖大な組織と比較して、教職員組合はきわめて弱小な組織のようですが、それでもなお執行部に異を唱えることができたのです。私は改めて職員組合の役割の重要性を痛感しました。

わが文学部支部が戦っている対象と、今回吉田寮生が戦っている対象は、同じものです。その意味で、私は寮生の活動を、たとえわずかではあっても、支援する必要があると感じました。

これは京大の精神の根幹に関わる問題です。大学当局はそれを自ら踏みにじろうとしているのです。とりわけ提訴という形でその判断の是非を大学外の組織に委ねるというのでは、学生に自治自由を教える資格がないことをみずから宣言しているようなものではないでしょうか。

このようなことを話してきたのは、じつはあることを言いたいためです。私のようにきわめて消極的な人間でさえ、昨今の大学をとりまく状況はおかしいと強く感じています。吉田寮問題はその一端であり、けっして大学当局と寮生だけに関わる問題ではありません。

とするなら、私のように寮生を支持する教職員は少なからずいるのではないかと想像します。ただそのような気持ちや意見を掘り起こしたり、伝えたりする手段がないだけなのです。学内のこうした微かな声、聞こえざる声を集めれば、たとえ個々の力がわずかではあっても、大きな力になりうるのではないかと思っています。